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デヴィッド・ボウイと『私の死』

デヴィッドボウイが死んだ。
僕の世界で一番好きな人が。
僕はデヴィッドボウイが死んだら地球の回転は止まるもんだと思っていた。
少なくとも、僕自身に関しては仮にその情報を直接知らなくても体調に異変をきたし、何か超常的な力を持ってして彼の死を感知できるだろうと信じていた。
それほど好きだったのだが、しかし、地球は当然のように回転をやめず、僕自身も友人に知らされるまで普通の祝日を暮らしていたのが、自分はデヴィッドボウイの美学の外側にいたのかと哀しくなった笑。
アルバムリリースの数日後にこの世を去る、というあまりにも完璧な去り際で彼はいなくなった。
そんな完璧さ、現実世界ではムダだ。
しかし「人間には美学を築くムダがあり、それこそがすばらしい」と教えてくれたのはデヴィッドボウイで、同時にその裏側の醜さも軽薄さもボウイの音楽は教えてくれた。


デヴィッドボウイが死んだから、
これからたくさんの曲が引用されて、多くの追悼が出されるだろう。
ボウイのすべての曲は死に結びつけられるし、それだけの想像力の余地を残してくれていたのもまたボウイの異形…もとい偉業なんだ。
しかし、デヴィッドボウイの死に際し、この曲について、日本語で最初に書くのはわたしでなければならない。そうでなければ嫌だ。
デヴィッドボウイには、「My Death」(私の死)という持ち曲があったこと。
この曲はアルバムに一度も収録された事がなく、ボウイにとって世界に自らを売りつけた1972年(人類の歴史の中で僕が一番好きな年だ)の『ジギースターダスト』のツアーで演奏された。
唯一、ツアーの映像を収録した『ジギースターダスト・モーションピクチャー』でのみ演奏を聴く事ができる。
この曲はジギースターダスト&スパイダーズフロムマーズの1年半のツアーのセットリストから一度も外れることがなかった。
そもそもこの曲は、ジャック・ブレルというフランスのシャンソン歌手・作詞作曲家の曲のカバーだ。
デヴィッドボウイはトリックスターで、本質のようなものを持っていないことを信条としていて、簡単にはそれを見せない。
しかし本質を持っていないフェイクだけのものがこんなにも長く、人の心をとらえるはずが無いんだ。
たくさんの美しいフェイクに彩られたボウイの煌びやかなディスコグラフィーの中で、実はすべてを貫く彼自身の本質に肉薄し得た詩の1つが、これだったんじゃないかと僕は思う。
今、ボウイのファンにこの詩を読んでほしいが、ボウイで検索しても『My Death』自体がボウイの歴史の中ではマニアックな曲で、ネットにボウイバージョンの訳詞は見つからない。
『デヴィッド・ボウイ詩集 スピード・オヴ・ライフ』においても、この曲の訳詞は権利の関係で収録されていない。
僕は、まったくない英語力と翻訳サイトを使って、僕なりの『My Death』の「意訳詩」を作って、ここに置いておくこと。
それが、極東の島国に生まれた僕に出来る追悼だ。



『私の死』

ジャック・ブレル デヴィッド・ボウイ


私の死は古い車輪のように待っている


わかるんだ、わたしはその道を辿るだろう


死と、去り行く時に、口笛を吹こう



私の死は聖書の真理のように待っている


あの青春の告別場で


僕たちは、去り行く時に飲み交わそう



私の死は、闇夜の魔女のように待っている


それでも、わたしたちの愛は確かに輝く


さあ、去り行く時を思うのはやめて




扉の向こうに何があろうとも


天使だろうと 悪魔だろうと どうでも良いことさ


その扉の前にいるのは、


あなたなのだから




私の死はめくらの乞食のように待っている


真っ暗な心で世界を見ている


去り行く時の銭別をめぐんでやろうか




私の死はあなたの太ももの間で待っている


あなたの冷たい指が私の眼を閉じる


さあ、去り行く時を思うのはやめよう




私の死は友人たちの許しを待っている


終わりを迎えるまでの、束の間の喜びの時間


さあ、去り行く時を思うのはやめよう




扉の向こうに何があろうとも


天使だろうと 悪魔だろうと どうでも良いことさ


その扉の前にいるのは、


あなたなのだから




私の死は枯れ葉の中で待っている


魔術師の神秘の袖の中に


野うさぎや、犬や、去り行く時が。




私の死は花々の中で待っている。


黒い、何よりも黒い影の中に潜んでいる


去り行く時のためにライラックをつもう。




私の死はダブルベッドでも待っている


忘却の帆を張ろう


さぁ、シーツを持って 去り行く時を包んでしまおう




扉の向こうに何があろうとも


天使だろうと 悪魔だろうと 僕にはどうでも良いことさ


その扉の前にいるのは、


あなたなのだから




以上、
1972年のサンタモニカでのライブ盤の歌詞を参考にがんばって意訳してみた。
もちろん僕は別に英語はわからないので、大部分が想像による補強をした「意訳」だ。
完全なる間違いがあったら、ご指摘ください。。

この曲を書いたジャック・ブレルという人は、キャリアの絶頂の60年代後半に引退宣言を出しステージでの歌手活動を引退して、10年以上にわたる闘病生活に入った。
ちょうど絶頂でおこなわれたジギー・スターダストの引退宣言、そしてボウイの晩年のステージ活動からの引退とダブる。
そしてブレルはアルバム収録曲から漏れた没曲を「何があっても永久に発表しない契約」をレーベルと結んでいたほどの美学の人であり、僕はそこもボウイとダブって見える。
少なくともキャリアにおいて最も重要な時期に、決してセットリストからはずさなかったこの曲がボウイにとって核心に迫る曲であったのは間違いない。

最後に、
ボウイが死んだ時に不謹慎だけど
『DAVID LIVE』というアルバムがある。
もちろん「デヴィッド、生きる」という意味ではなく、デヴィッドボウイのライブ盤だ。
皮肉な事に、このアルバムのジャケット写真のボウイは、死人のように影が落ちた陰鬱な姿をしている。
その死人のような姿をボウイは気に入っていなかったらしく
「タイトルを”DAVID BOWIE is Alive and Well and Living Only in Theory”にすれば良かった」とインタビューで語った。
日本語にすると「デヴィッド・ボウイは健在で、理論の中にだけ生きている」となる。
デヴィッドボウイの歴史が、終わるのではない。
デヴィッドボウイのいた宇宙の歴史が終わり、デヴィッドボウイのいない宇宙の歴史が始まるのだ。



※全体に『デヴィッド・ボウイ詩集 スピード・オヴ・ライフ』を参考にしました。

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